あぁルナ稽古場日誌!

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自分の過去は頭の中ですべてが渾然一体となっている。昨日も半年前も四十年前も等しく、過去という名の部屋に陳列されている。
今、自分は四十一だが、五十で死ぬとする。で、死ぬ瞬間に人生を振り返る。すると、五十年の全人生は当然ながら、ぜんぶ過去となっている。現在からみれば四十二から五十歳までは未来にもかかわらず、死ぬ時点では今の自分の過去(0歳~四十一歳)と一つに混じりあって共存している。
つまり、同じ出来事なのに、人生のどの時点で見るかによって、それは過去だったり未来だったりするわけだ。結論を言えば、結局は過去・現在・未来は単に主観的なものなのだ。客観視すれば、それに前後はなく、同じガラスケースに等しく陳列されているのだ。
さらに宇宙終焉の瞬間から見れば、なにもかもが過去になり、始まりから終わりまでの全時間・全事象は一つにシンクロする。つまり、これが自分の主観を取り除いた際に出現する、真の客観的な宇宙の在り方なのではないだろうか。
死んだ人たちの人生はすべてが過去だ。同様に、生きている人の全時間も、これから生まれる人の全時間もホントは、過去と同じように、具体的にはわれわれの頭の中の記憶のように、同時に共存しているのだ。
過去が先で未来が後ではない。それは同時なのだ。いまここに同時にあるのだ。結果と原因も、終わりも始まりも、未来も過去も、結論も序章も、死も誕生も、全世界全時間全事象が同時に仲良く混交しているのだ。それが自己滅却した結果、到達できる形而上的真理だ。
では、なぜボクはその真実を日常、リアルに感じることができないのだろうか。なぜ過去と未来はシンクロしているのに、未来はまだ起こっていないと思うのだろう。なぜ三日前を思い出せるのに、三日後は未知なのだろう。本当にそれが肉体に棲むボクの宿命なのだろうか。フィジカルな意味で自己滅却しない限り、主観というバイアスから逃れられないのだろうか。肉体に入り、自分という名の博物館を、時間という順路に沿って歩く。そのルールはどのように作り出されたのだろう。
この人生は極めて限定された特殊なものだ。自分は間違ったまま生まれてきて、間違ったまま生きて、間違ったまま死んでいくわけだ。こんなことが本当に汎宇宙的法則なのだろうか。いや、ボクはもう信じない。こんな茶番はウンザリだ。自分という前提が間違っているなら、真っ先にそれを破壊する必要がある。

さて、そこでボクはこう考えてみた。それと逆のことを想定してみたらどうだろう。
もしも、あらゆる生物が死なないとしたら。永遠に生きて、歳もとらないし、病気にもならないとしたら。その場合、「時間」そのものに意味はあるのだろうか。自分の体が永遠にそのままだとしたら、時間はまるっきり意味を失うのではないか。永遠にボクもあなたも、何も変わらない、増えることもないし、減ることもないとしたら。そうした永遠不変の存在として願うことはなんだろう。それは変化だ。永遠不滅にもかかわらず、変化するとしたら、それは抜本的に矛盾している。そのアンビバレントな願いを実現するとしたら、まず永遠不滅を否定しなければならない。そこで「仮に」常に変化し続ける有限の宇宙を作り出したとすればどうだろう。そして、永遠不滅の本来のすべてを忘れて生きたとしたら。その仮の世界が終わり、本来の姿に戻ったときに、なんらかしらの成長(変化)が起こるのではないか。これはボクの思考実験にすぎない。何が真実なのかは死んでみなければ、分からないのだ。だからこそ、この宇宙での人生にはきっと意味があるのだ。

それでもボクは生きている今、何が真実なのか知りたい。時間という、光が作り出した虚のトリックをボクは看破する。
いや、全未来は過去の集合に含まれるのだから、正しくは「ボクは看破した」が正確な言い方になるだろう。ボクはすでに終わっている旅をしている。時間は見せかけなのだ。
ということで、これからはボクは未来のこともすべて過去形で話すことにしますっ!そこんとこヨロシク!
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